ひびはんせい

3人の子のカーチャン。みんな違ってみんなcrazy

大好きだった祖母の事を語りたい

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大好きだった祖母

わたしが実家に住んでいた時、唯一大好きだったのが祖母だった。

そして滅多に人のことを尊敬する、っていう感情が起きないわたしにとって数少ない尊敬している人物でもある。

祖母は大正生まれ、生きていればいくつだろう、100歳は超えているはずだ。

彼女はその時代の女性には珍しく、薬剤師の資格を持ち、自立して働き、そして40歳を過ぎて子供を産んだシングルマザーであった。とても頭が良く、パワーに満ちていて、そして自由な人だったんだと思う。

いつもサングラスをかけ、きちっとお団子頭にしてかっこいいイヤリングとかっこいいスカートをはいていた。

 

彼女はわたしのことをとてもかわいがってくれて、でもどちらかと言うと「祖母と孫」と言うより対等な関係に近かったなーと今は思う。

よく思い出すのは、夏休みに笑っていいともを見たいわたしvsみのもんたのおもいッきりテレビを見たい祖母のチャンネル争いと、夕方、テレ東アニメを見たいわたしvsNHKで相撲も見たい祖母のチャンネル争い。

1度本気でケンカになって、祖母にほっぺたをおもいっきりつねられて、爪で抉られて傷が残ってしまったこともある(昔の薬剤師は親指の爪で錠剤を割っていたので親指の爪だけ長かった)。

その傷は今でもよく見るとうっすら残っていて、だけどなんだか全然嫌じゃなくて、わたし的には勲章のような気持ちで受け止めている傷である。

彼女が生きていた証、仲良しだったしるし、みたいなね。

 

色んなことに対してフラットだった祖母

彼女は友達が多く、わたしから見ても「1度会ったら友達で、毎日会ったら兄弟だ(byドレミファどーなっつ!)」な人で、1度道でしゃべったわたしの友達(当時小学生)も友達だって言うような人だった。

そして自宅でお店をやっていたのもあって、毎日かわるがわる家には人が遊びに来ていた。

他にも夏の暑い日に一緒に電車に乗って遊びに行った時に、駅で電車待ちしてる女子高生とわたしにアイスを買っておしゃべりしたり、わたしの地元に別荘を持っていたケーシィ高峯と何度かしゃべった事があったようで、祖母は「ケーシィ高峯は友達!」とか言っていて、この人はなんて友達のハードルが低い人なんだろう、と子供心に思った記憶がある。

あと、今となっては何だったのかわからないけど、時々夜にオシャレをして「今日はまるちゃんとデート♡」なんて言ってお出かけをしていて、ぼんやりとばーばには彼氏がいるのかな?と思っていた事も覚えている。70過ぎてもなお、自由だった。

 

また、自宅の前を障害のある人の学園(今となっては何だったのかよくわからないが、障害のある方達の学校?)と呼ばれているところに連れていくバスのバス停として提供していて、毎朝彼らとおしゃべりするのが大好きだったようで毎朝みんなとおしゃべりをして、そして見送る、というのが日課だった。

わたしも小さい頃からそれに混じって見送りをしていて、子どもの頃の私には「障がい者」という概念がなく、ちょっと変わったお兄さんお姉さんだなーくらいの感覚で、わたしも優しい彼らの事が大好きだった。

たぶん、ここらへんの経験が今のわたしを形成していて、変わった人を見てもそんなにビビらない、と言うか、割と普通に受け入れられるようになった気がする。

 

そんな彼女だが、わたしが中学1年生の時に突然、死んだ。

 

最期まで楽しそうだった祖母

彼女の趣味は旅行で、時々友達を誘ったりひとりだったり、旅行に行く事が度々あった。

だけど80歳に近くなってからはひとりで旅行をする、というのをやめて、友人誰かと必ず旅行をしていた。

だけどわたしが中1の冬、その時はいつもと違っていて、冬で寒いから、という理由で友人に旅行に行く事を断られてしまったのに、絶対行くんだ!とひとりで旅行に行くことを決めてしまった。

ちなみにわたしも旅行行かない?って誘われたんだけど、思春期に入っていたわたしは「めんどくさいし、新学期もあるから行かなーい」と断ってしまっていた。これは未だに少し後悔している。

 

出かける直前、お迎えのバスが来るまで、わたしは祖母のそばで見送りをした。

祖母は自分が子どもの頃の話とか、戦争の話とか、そんな話をわたしにするのが大好きだった。何度も何度も聞いた話もあった。

バスを待っている間もいろんな話をしてくれて、だけど途中でバスが来てしまい

「この話の続きは帰ってきた後にね!んだらばね!(またねの意味)」

と言い、出かけて行った。これがわたしと祖母の最後の会話になってしまうとも知らず、わたしは心のどこかで「何回同じ話するんだよ〜」と苦笑いしながら見送り、でも帰ってきてまた話を聞くのが楽しみだなーなんて思っていた。

 

そして数日後、旅行先で祖母が亡くなったという連絡が来た。

 

 

最期の祖母の姿

彼女は旅行先の大阪の泊まれる船(クルーズ船ていうの?)で亡くなった。

脳梗塞だか心筋梗塞だか、とにかくどこかに血管が詰まって死んでしまったようだ。

船の人の話によると、夜中に「具合が悪い」と訴えた祖母に薬をあげて、そのあと薬を飲んだ祖母は自室に戻り、そのまま眠るように息を引き取ったようだった。

 

亡くなった祖母を父が飛行機で迎えに行ったり、場所が場所なので一応「変死」扱いになったので警察から色々電話が来たり、本当に色々大変だった。

当時中学生のわたしから見ても大変な騒ぎだったってことは、それの対応にあたった両親はきっともっと大変だったに違いない。

そして、「一緒に行こう」と言われて断ってしまっていたわたしは、「もし一緒に行ってれば…」とか色々考えてしまい、メンタル的にとても落ちてしまった。

 

お葬式の前、自宅に祖母の遺体を置いている時に、旅行先で一緒だったという若い女の人がうちを訪ねてくれたのが本当にわたしにとっては本当に救いだった。

彼女は死ぬ前日の祖母の話を色々してくれた。

船上パーティがあって、そこで親しく話をした事、若い男性とダンスを踊っていたこと、本当に楽しそうに過ごしていたこと。色々話してくれた。

後日、祖母のカメラに残っていたフィルムを現像したら楽しそうに若い男性と踊っている祖母の姿を見る事が出来た。

祖母は最後の最後まで楽しんでいたのだ。

 

 

わたしのなりたい人間像

わたしも祖母のように自由に、パワフルに、そして楽しくフラットに人と接していけるようになりたいなーとずっと漠然と思っていた。

だけど今までは色々なしがらみがあってそんな事もできなくて、だけど今は色々なことから解き放たれてI’m free!!!と叫びたくなるような事も増えて楽しい日々を過ごせている。

きっと祖母も昔は色んなしがらみとか苦しみを背負って生きていて、だけどそれを乗り越えてきっとあんな面白い人になったんだろうなー。

戦争で好きだった人が死んだり、あの時代に女手ひとつで店を経営し子供をそだてるなんて、たぶん尋常じゃない苦労があったとおもう。

それなのに色んな話をわたしにしてくれても「苦しかった」と1度も弱音としての話を聞いた事がなくて、だからこそわたしは祖母が大好きなんだろうな、と思うし、本当に強いひとだったんだなあ、と改めて思う。

 

わたしも彼女のように死ぬまで自由に、そして強く逞しく生きていきたいなあ〜。

もう一度だけでいいから、会って今幸せに生きてるよ、って事を伝えたいなって時々思う。